人について

「感覚」と「思考」
「感じとるもの」と「考え生むもの」

この人が持つ2面は人を語る上では欠かせない要素であると私は考えます。

まず「感覚」は感覚器官を通して「今この瞬間を切り取る能力」であり
それは人の生そのものを表しているとも言えます。

そして「思考」は頭に「過去や未来を作り出し」
その2点間を比較し問題解決を図る能力で、文明文化の基盤であると言えます。

この「思考」は人を動物から(神から)人間へと差別化した、一方で、比較することから生まれる劣等感・優越感などの心の距離や他人への恐怖心を生みだし、今現在の多くの人の苦しみの原因でもあると考えます。

「感覚」と「思考」
言葉の範囲を広げると「右脳(感覚)」と「左脳(思考)」と捉えても同義であります。

※以降はより広義の「右脳」と「左脳」に切り替えて説明します。

因みにキリスト教の中に出てくるアダムとイヴの話もシュメール文明のエンリルとエンキの争いも、人間のこの2面性を体感した当時の人が物語にして説明してくれていると考えています。

※知恵の実を食べたアダムとイヴは原罪を背負い、神様から人間へと落ちた。イヴは知恵の実を食べたことで自身が裸であることが恥ずかしくなり柏の葉で身を隠した。

この2面については
どちらが正しいとか間違っているとかではなく、人間の中に共存する2面なので、バランスが重要だと考えています。

「右脳」は動物的であり神的であり、命を人に与えてくれます。
「左脳」は人間的であり社会的な自身の立ち位置を与えています

双方を自分なりのバランスで感じ取ることが必要で
これらは生きる上でのバランス感覚になります。

この話を人から社会に広げます

今の世の中を構成している資本主義社会は基本的に「左脳」の積み上げによって成り立っています。
会社にいれば結果を求められ、結果を出すために逆算して今何をするかを
明確化し、その通りに遂行することで前年に○○%の売り上げを確保する。
もしその通りにならなければなぜならなかったを再思考し、対策を練っていく。未来を左脳(思考)によって予想できるように働き続けています。

また人の評価も「心地よいから」とかではなく、数値化できるもので
比較されます。
「営業成績半期売り上げ〇〇万円」
「学年偏差値」

当然お分かりになると思いますが、こういった左脳で作られた世界には
比較がベースにある為、「良い人」「ダメな人」を作ります。

近年の情報革新に伴い、SNSが発達しました。
携帯を開けば自分より豊か(そう)な自分の生活を見せられてしまいます。

そんな情報だらけの生活を続けていると、人は左脳傾向の思考過多になり。
誰かとの比較で劣等感に苛まれ・自己肯定感を持てなくなります。
比較ができるようなSNSを利用していると自己肯定感が低くなるという
相関を発見した論文も書かれている。

その反動なのか、
世の中では感覚を使う趣味がとても流行っているように感じます。

アウトドアやヨガ・瞑想・神社巡り・焚き火等々 

私自身の話をさせてもらうと
数年前までは完全に思考過多な生き方をしていました。
会社で活躍する為に、徹底的に思考していました。
比較の中でいき、負けないと寝る間も惜しんで勉強し疲弊もしましたし。
しかしいくら努力しようとも、劣等感は拭えず
常に自分を上回る何かに劣る自分に悲しみ何者でもない自分に辟易としました。

数年前に上記の仕組みに気づき
自分の心のコントロール方法を学びました。

そして今は、群馬県の森の中に暮らしています。

森の中にいると思考は自然と収まり、感覚有意な時間が多くなります。

鳥の鳴き声で起きたり、月の明るさで満ち欠けを感じ、
草花の香りで季節を感じ、森の中の動物が歩く音にも敏感になります。

生きる基本が感覚に紐づいている事を実感させられます。

だから一昔前に比べて圧倒的に自分自身のバランスも保ちやすくなっています。

今ある自分に感謝して、他人との差の中に自分を産むのではなく
親からいただいたこの体と心に感謝し、自然と一体となっています。

そうすると不思議といただける仕事にも全力で向き合えるようになります
今ある自分を振り絞るしかないのだから。

仕事をいただいた時は、休ませている思考を全開にします。
そこに人間らしい自分を燃やすのだ と。

生きる上でやることはシンプルであるとつくづく気付かされます。

私が紡ぐ建築も、あなたにとってそんな場所であって欲しいと願います。

あなたの五感がどのように疼くのかを想像し、その心地よい感覚を形にするために思考を積み重ねて、物作りをしていきます。